2013年10月
御遠忌(ごおんき)を迎えて(十一)
念仏について―詠唱念仏―
阿弥陀仏の極楽浄土を願い求める教えを一括して浄土教といい慣わしていますが、浄土教の中心をなすものは念仏です。念仏とは仏を念じることですが、これには真理の当体そのものを念じる法身(ほっしん)の念仏と、仏の功徳や相好(そうごう)(すがた)を心に思い浮かべてみる観念の念仏と、仏の名を口に称える称名(しょうみょう)の念仏とがあります。
法身の念仏と観念の念仏については今は論じないで、称名念仏すなわち口称(くしょう)念仏について考えてみましょう。口称念仏は具体的には南無阿弥陀仏と称えることをいうのですが一般に念仏といえば口称念仏を指すほどに普遍的になりました。
その理由は、口に南無阿弥陀仏と称えるのは誰れにもできるやさしい行(ぎょう)であるということが最大の特徴です。難解な仏教の学問もいらないし、ただ信の一念があればよいのです。また「時処諸縁(じしょしょえん)を択(えら)ばず」といって、いつどこでも実行できるという利点もあります。
わが国に口称念仏を定着させたのは、浄土宗の開祖、法然上人ですが、それよりも約60年前に良忍上人は口称融通念仏を唱導されました。良忍上人の念仏は特に詠唱念仏の呼称があるように、これは念仏に格調高い曲節を付して唱えるもので、古くは唐の法照(ほっしょう)が8世紀「五会念仏(ごえねんぶつ)」を創唱したのに端を発するものです。これは五音の曲調に合わせて、緩急次第よろしく念仏を唱えるもので、五会とは(1)平声でゆるやかに南無阿弥陀仏と唱え(2)平上声でゆるやかに念じ、(3)非緩非急の調子で南無阿弥陀仏と唱え、(4)漸急といって、ゆるやかな調子から徐々に早く南無阿弥陀仏と唱え(5)転急といって、急速に阿弥陀仏(四字)を唱えるというものです。
良忍上人は天性の美声の持ち主であったところから、この念仏を盛んにし、声明あるいは梵唄(ぼんばい)といわれる仏教音楽を大成されました。
良忍上人は口称念仏の行者ではありましたが、12歳のとき比叡山で出家し、その後、天台僧として修学と修行に明け暮れた上人には、壮年の頃まで多分に観念的傾向があったらしいのです。そのことを示す一つの事例として、『法然上人行状絵図』第6巻第2段に次のような話があります。
あるとき法然上人が「往生の業(わざ)には、称名に過ぎたる行あるべからず。」と仰言った。すると師僧の叡空上人は観仏(観念の念仏)がすぐれていると仰せになった。ところが法然上人は、称名は本願の行であるから最もすぐれていると譲らない。叡空上人は更に「先師良忍上人も、観仏すぐれたりとこそ仰せられしか。」(亡くなられた師僧、良忍上人も観仏がすぐれていると言われた。)といって法然上人をとがめます。するとまたも「良忍上人も先にこそ生まれ給いたれ。」(良忍上人は、私たちより先にお生れになったからである。)先の時代には観仏が主流をなしていたからだという意味で、今ならきっと口称がすぐれているといわれるに違いないとの意味を言外に含んだお言葉です。因みに良忍上人は叡空上人の師僧でした。
この箇所を読むと、良忍上人は天台流観念の念仏を主唱しておられたことが伺えます。しかしそれは叡空上人が師事しておられた良忍上人のお若いときであったようです。
『融通念仏縁起』には、良忍上人が46歳のとき、阿弥陀仏の示現により、融通念仏の教えを授かってからは、「今、この阿弥陀如来の告(つげ)に驚きて、年来自力(じりき)観念の功をすてて偏えに融通念仏勧進の志おこり、他力称名の行者となり給う。」とあります。
融通念佛宗 宗務総長
総本山大念佛寺 寺務総長