2009年11月
御遠忌(ごおんき)を迎えて(二)
私は以前から融通念佛宗の布教スローガンの一つとして、「三あい運動」を提唱してきました。三あいとは、拝みあい、支えあい、譲りあいのことです。この三つは人間が共同社会の中で生きて行く上において、ごく当たり前のことですが、これが現実にはなかなか難しいことなのです。おがみ合うのではなく、いがみ合う社会の風潮が蔓延(まんえん)し、支えあい譲りあう美徳もどこへやらといった情けない現状を目にします。日々テレビや新聞のニュースで伝えられる様々な事件も、概ね三あいから離れたところに起因しています。
拝むという場合、私たちはその対象を神・仏・先祖の霊位と考えるのが一般的です。勿論これは大切なことですが、しかし仏教では拝むものはこれにとどまらず、六方礼経(ろっぽうらいきょう)というお経には東西南北上下、どこを向いても拝むべきものばかりであると教えています。
朝、目がさめると、今日も命をいただいた喜びで朝日を拝む。顔を洗えば水のおかげを感謝して水を拝む。食事をする、この食物がここに至るまでの多くの人の労苦を思うとともに、この食物がおのが身を犠牲にして、私の生命を支えてくれていることに思いを馳せれば拝まずにはいられない。対人関係においても、拝み合いの中から信頼と協調が生まれるのです。拝むものは無数にある。だからすべてのものを拝むことが大切なのです。
支えあいとは、人は支え合ってこそ生きられるものなのです。完璧な人間はだれもいません。長所短所それぞれを補い合い、支えあってこそ人は人として生きられるものなのです。
譲りあいとは、電車内で席を譲る等、自分の持ち合わせている安楽な立場を他の人に与えることに使われています。さらにこれをもう少し掘り下げていえば、「利他(りた)」の精神を述べたものということができます。利他とは自分のことは後まわしにしてでも、他人(ひと)のことを先にするということです。他人の喜びのため、幸せのために、自分にできることを進んでさせていただく、こういう人を仏教では菩薩(ぼさつ)と云い、その行いを菩薩(ぼさつ)行(ぎょう)といって尊びます。
このように「三あい」を実行していくところに、よき家庭、よき社会、よき集団生活が築かれていくのです。わけても私たちにとって、最も小さな集団は家族です。最近は家があっても家庭がないという子供がふえているといいます。なんと哀れなことでしょうか。家庭は家族の最も大事な生活の場です。まずそこに「三あい」を根づかせる努力をしていただきたい。そしてその輪を社会全体に広げて行く努力を、お互いが常に怠ることなく実践して行くこと。そこに融通社会が開けて行くのです。そしてそれが良忍上人が願われた、融通念佛宗の教えに連なった人びとの生活規範であります。
融通念佛宗 宗務総長
総本山大念佛寺 寺務総長