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両祖師絵伝(江戸時代)大念佛寺蔵
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両祖師絵伝(江戸時代)大念佛寺蔵
当時の庶民は、どのような名を告げて「名帳」に加入していたのでしょうか。女性が名を匿すのは当時の習わしで、男性の場合でも庶民には氏姓は無くあだ名や通称で呼び合っていました。男女ともに生来の名を告げ、「名帳」に加わり念佛の回数を誓っていたことでしょう。
実際の名前については、奈良市元興寺蔵の木造聖徳太子像(重文)の胎内から発見された「千杯供養札」(鎌倉初期)には、いくつかの名前が具体的に出ているようです。例えば「鯛女」「延寿女」「みつやす」「小松」「すわうにょ」「はるわかにょ」「加刀丸」「石隈太郎」などです。良忍上人の名帳にもこのような素朴な名前が連ねられていたことと思われます。
来迎院の本堂。正面の蔀(しとみ)が取り払われ、風通しの良い外陣で二人の僧が対面しています。向こう側が良忍上人。手前が青衣の僧。頭光をつけているので毘沙門天の化僧とわかります。要件は融通念仏会への入会と日課念仏加入の「名帳」記入の要望でした。良忍上人は「名帳」を差し出し、そこに青僧はサッと記入してそのあと煙のように消えたのです。
来迎院を後にすると、青僧は再び境内上空でもとの厳めしい毘沙門天の姿に立ち戻り、雲を呼んで鞍馬寺へ帰ってゆくのでした。
「請ケ奉ル念佛百反、仏法護者鞍馬寺毘沙門天王、念佛結縁ノ衆生ヲ守護センガタメニ来レリ云々」と文言がしたためられていました。
鞍馬寺は洛北鞍馬山の中腹にあり、毘沙門天の霊場で知られているところです。
融通念佛に結縁された神々の顔触れは、大変な広がりを見せています。
昔、釈迦如来がインドの祇園精舎で「阿弥陀経」を説かれたとき、東西南北上下六方にまします無数の仏たちが、声をそろえて「げにも誠の教えなり」と称賛された。時は下り、末法濁世の我が国で、大原の良忍上人が融通念佛を勧進されたところ、毘沙門天をはじめ、インド・中国・日本の神々がこぞってこの念佛に同心し、名帳に加入されたのです。
インド・中国の神々は人物像でしたが、日本の神々(神祇)はすべて社殿や鳥居で象徴的に表現されています。
このように、諸天や日本の神々は毘沙門天の勧進に同心し、天治2年(1125)4月5日より融通念佛の行者となり、未来永劫決して退転しないと誓いあわれました。天界の神々すら阿弥陀仏の名号を深く信じて念佛に育まれました。
そもそも我国は神国であり、神々の結縁によって信心が一層深まり、勧進にも励みがついたことと思われます。
以上のように毘沙門から名帳(神名帳)を頂く…それは、鞍馬寺本堂での出来事でした。良忍上人のおこもりの時。虎の刻、午前4時頃。火焔を背負った毘沙門天が威相を和らげ良忍上人の所にやってきて一巻の巻物を手渡されたのです。それは、思いもよらぬ神々の名が記された「名帳」(神名帳)であったのです。
融通念仏会に加入参加し、日課百遍を誓った神々の名前が記されていて、一般の融通念佛勧進の「名帳」と区別して「神名帳」と呼ぶことになりました。