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絵巻で見る両祖師物語
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両祖師絵伝(江戸時代)大念佛寺蔵
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両祖師絵伝(江戸時代)大念佛寺蔵
良忍上人、お生まれになったのは、尾張国知多郡富田荘で、現在の愛知県東海市にあたります。父上は藤原秦氏兵曹道武、母上は熱田神宮宮司の息女です。仲睦まじいご両親は、ひとえに世継ぎの誕生を願われて熱田神宮に懇祷祈願されました。甲斐あって、微妙な歌唄の声が聞こえて神明の感応があり、漸く延久4年(1072)の元旦に御誕生となりました。
ご出胎の初音は世の常の凡庸なものでなく、神明の感応の兆しどおり誠に生まれつきの美声であったところから、幼名を音徳丸と名付けられました。
幼いころから三宝敬慕の志が厚く、早や12歳の春比叡山に登り、東塔の良賀僧都について出家得度されます。常行堂の堂僧となって念佛行と天台教義習得に励むかたわら、仁和寺の永意に密教、三井寺の禅仁に戒法を授かり、奈良南都に留学して古来の仏教も修学されます。
そして、比叡山の難関とされる検定にも良き成績で終えられ、ついには若干21歳で顕密両宗の奥義を習得し、叡山三千の学侶その右に出るものが無く、学頭職のちの比叡山師範である講主の座につくことになられます。
真の上求菩提・下化衆生の本懐を遂げること、そのために若く23歳をして、講主の座を辞して、心ある修行僧が多く集まる大原に隠棲されます。大原での良忍上人は一切経を被閲(調査)し、堂舎仏像の造立、一日六万遍の念佛を称えるかたわら、法華経書写に励み、さらに手足の指を燃やしてとまでいわれる中、仏と経に供養される精進は、真摯な念佛行者であり、また勤勉な法華経の修行者であったことが伝えられています。
そして大原では、念佛行に加えて声明の研鑽にも励まれることになります。
慈覚大師円仁が大陸の唐から持ち帰った声明も加わり、比叡山で勤められる種々の天台の声明は分派混乱の様相を見せ始めていました。良忍上人は一念発起して、全ての声明を修せられて音階の整理統合、博士(音符)の改良など天台声明の集約大成に取り組まれます。生来の美声徳音はここで大いに発揮され、その音声清雅の様子は大原での一つの伝説となりました。律川上流に小さな滝があり「音無の滝」と呼ばれています。良忍上人の声明修行中、そのあまりの素晴らしい音曲に、滝の音が音律に同調して音が消えて無くなったという故事が伝えられています。
最澄以来の天台声明、新しく慈覚大師円仁が唐より請来した声明、また多武峰の頼澄阿闍梨より学んだ奈良声明、これらを統合し研鑽を積み重ねて大原流魚山声明が良忍上人によって確立されました。
永久5年(1117)5月15日、良忍上人46歳を迎えた初夏の真昼時、しばし微睡(まどろ)まわれたとき、阿弥陀如来が夢に現れ、速疾往生のすばらしい教えとして融通念佛を授与されたのです。融通念佛は、一人の行を以て衆人の行とし、衆人の行を以て一人の行とするから功徳も広大で(一人の力では叶わないが、念佛の力が融通して大きな力となる)無常の幸せの世界に至ることが可能、とする念佛であり教えなのです。
その言葉を佛勅といい、この言葉を頂いた日をもって、融通念佛宗開宗の日としています。
「汝が行、不可思議なれども順次往生得難し。われ今、速疾往生の勝因を教えん、と告げ訖って、口称融通念佛を授与し甚深難思の宗意を指陳して言はく、」
<佛勅>
一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行
是名他力往生
十界一念 融通念佛 億百万遍 功徳円満
夢から覚めた良忍上人のもとへ、空から一枚の白絹が舞い降りてきました。見るといましがた教えを説かれた阿弥陀如来と、如来を取り巻く十体の菩薩が雲に乗って降りてくる一仏十菩薩の来迎相が描かれていました。融通念佛宗ではこの図相を「十界一念」すなわち自他(一仏と十菩薩)融通の表彰と受け止め、天から授かったので「天得如来」と称し、本山大念佛寺に安置して本宗ご本尊としています。
本尊の名称:十一尊天得如来(一仏中立十聖囲繞天得阿弥陀如来)