融通念佛宗のあゆみ

年表

年代 できごと
延久5(1073) 良忍生まれる
天仁2(1109) 良忍、大原来迎院を創設
永久5(1117) 良忍、融通念仏を感得する【融通念佛宗の誕生】
大治2(1127) 良忍、摂津平野の修楽寺を融通念仏の根本道場と定める
長承元(1132) 良忍、大原来迎院で入滅
寿永元(1182) 第六世良鎮入滅【第六世入滅後、第七世に至るまで139年間法灯が途絶える】
弘安2(1279) 法明生まれる
正和3(1314) 融通念佛縁起が製作される
元享元(1321) 法明、融通念佛宗第七世となる
元享3(1323) 法明、播磨加古 教信寺で念仏会を修する 亀鉦伝説
正平4(1349) 法明、入滅
明徳2(1391) 第十四世道音、後小松天皇から宸翰の勧進帳を賜る
天文9(1540) 春誉尼、河内国の大念佛道場に亀鉦縁起一巻を寄進する
元和元(1615) 徳川家康が大念佛寺にて大阪の役の祈祷をする
徳川家康・秀忠からの寄進を断り回在弘通の許可を得る【御回在原型が誕生】
第三十六世道和、大念佛寺を定堂化する
寛文元(1661) 大念佛寺、寺社奉行から大念佛宗の惣本寺として認められる【総本山大念佛寺の誕生】
寛文2年(1662) 大念佛宗、江戸将軍家への年頭拝礼を始める
寛文年間 大念佛寺境内に大堂の建立を始める
寛文7(1667) 第四十三世舜空が大堂建立する
貞享元(1684) 良観・大通、宗門再興の願書を江戸に差し出す
元禄元(1688) 宗門再興の裁許を受ける
元禄2(1689) 大通、第四十六世となる
元禄6(1693) 大通、天得如来を江戸城に奉持する
元禄7(1694) 大通、紫衣を賜る
元禄9(1696) 檀林設置の許可を得、学頭院を建立し、僧侶の育成に励む
元禄13(1700) 老若男女5400人、財を積んで大数珠をつくる
元禄16(1703) 宗名を大念佛宗から融通念佛宗に改める【大念佛宗から融通念佛宗へ】
安永2(1773) 後桃園天皇から元祖良忍に対して聖應大師の号を賜る
明治7(1874) 宗門特立を認められる
明治31(1898) 本堂が全焼失する
大正5(1916) 仮本堂等を建立する
昭和13(1938) 現在の本堂が完成する

国産第一号の宗派

日本仏教の宗派は古来、13宗56派と称していました。戦後、多くの宗教法人が分派独立したり、新たに開立したりして今ではその数も160程になっています。しかしその教義及び歴史と伝統の上に立ってみると13宗がその根本であることに変わりありません。

融通念佛宗は古くから“大念佛宗”又は“融通大念佛宗”と呼ばれ親しまれてきました。日本仏教13宗のうちで成立順にみると第6番目になります。天台宗、真言宗に次いで平安時代後期に成立した古い歴史を持つ宗派です。鎌倉時代になると、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など相次いで成立しましたが、融通念佛宗はその先駆けをなしたもので国産仏教第一の宗派といえるのです。なぜならそれまでの宗派は三国伝来といってインド、中国または朝鮮を経てわが国に伝えられた、いわば輸入仏教であったからです。それでは融通念佛宗についてその概要を説明しましょう。

大念佛寺の開創

大念佛寺の開創

良忍上人はかねてより聖徳太子尊崇の念が深く、名帳勧進を兼ね太子ゆかりの四天王寺に詣でた折、平野が融通念仏を広めるのにふさわしい土地柄であるとの太子の夢告を得られました。

平野の地は征夷大将軍 坂上田村麿の第二子広野公の管轄下におかれ、その菩提寺である修楽寺(明治初年、廃仏毀釈により杭全神社に吸収された)の別院だった香華院において融通念仏会を修したところ、参集の人びとがあとを絶たない盛況ぶりでした。鳥羽上皇はここを念仏勧進の根本道場と勅されました。これが総本山大念佛寺の開創です。

法燈の中断と法明上人の出現

その後、良忍上人の後継者がこの念仏の勧進をますます盛んにしていきましたが、大念佛寺に伝わる宗門の法燈(血脈ともいう)は、第六世良鎮上人が寿永元年(1182)に没して後、良き後継者に恵まれなかったため、元亨元年(1321)まで139年間中断することになりました。その間、融通念仏の法儀、宗要の密意、霊宝の悉くは石清水八幡宮の男山の社殿に蔵されました。

宗門の法燈が中断したとはいえ融通念仏の法流は別のルートを経て各地に伝播することになったのです。嵯峨清涼寺、花園法金剛院、壬生地蔵寺などで融通念仏が盛んに修せられるとともに、聖と呼ばれる遊行性をもった僧が各地で念仏勧進に励みました。東大寺叡尊、円覚十万上人道御、一遍智真は融通念仏の普及に最も尽力した聖達でした。また民間信仰や芸能と結びつき、日本全国に広まっていったのです。

宗門の法燈が消えていた鎌倉時代において法然上人、親鸞上人、日蓮上人等が出て、新仏教が開花しましたが、その中にあって融通念仏はその庶民性と寛容性とによって各地に力強く浸透していったのです。

融通念仏がいわゆる傍系において盛行を見ていた折しも、高野聖として活躍していた深江の法明上人が宗門の法燈を継承することになります。

法明上人による復興

法明上人による復興

元亨元年(1321)法明上人43歳の11月15日夜、深江の草庵に石清水八幡大士が来現して、「永らく融通念仏の法燈を伝授する器を待っていたが、あなたこそその人材である」と告げ融通念仏の口伝を授与し、その上、良鎮上人以来男山の社殿に預かっていた霊宝のすべてを返還する旨を伝えます。

八幡大士の神勅は同社の社人にも及び、融通念仏の霊宝の授受が茄子作(枚方市)の里で行われます。ここは八幡宮の社人と法明上人の一行とが霊宝の授受を行うために出向いて遇々出会った所であったのです。

その時の両者の感激ぶりは本尊「十一尊天得如来」を傍らの松の木に掛け、その周りを念仏を唱えながら踊りだしたという故事にもよく表れています。これが今も史蹟として残る茄子作の“本尊掛けの松”であります。

法明上人は惣(郷村)を中心に活動し、念仏共同体として講を組織し、大念仏教団の基礎を築かれました。

大通上人の再興

大通上人の再興

室町、戦国時代を経て徳川初期に第三十六世道和上人の時、総本山大念佛寺の寺地が現在地に定まり一宗の本寺としての権威は高まったものの、元和元年(1615)大坂夏の陣によって堂舎ことごとく焼失しました。それから60年後の寛文12年(1672)第四十三世舜空上人の時、立派な本堂が再建されました。(明治31年に焼失し現在の本堂は昭和13年竣工)かくして第四十六世大通上人の出現を見ることになります。天和2年(1682)初めて江戸に登り、将軍綱吉公の裁可を請い僧侶の服正を正し、広く諸国を巡歴し、高徳を訪ね、有縁の信者を教化することに努められました。元禄元年(1688)宗門の復興の台命を受け、儀礼を整え、諸堂を新築、また境内を整備し什物を修理するなど大念佛寺の景観を一新されました。

また檀林勅許を賜わり、宗内に仏教の学問を盛んにし、自ら「融通圓門章」「融通念佛信解章」を撰述し、教義を宣布し、さらには末寺を巡錫して本山と末寺との関係を密にされました。

まことに大通上人は宗門の再興の大恩人というべく今日に至るまで、その偉業は輝かしい光彩を放っているのです。