融通念仏とは

融通のこころ

融通念佛の融通とはどんな意味でしょうか。これは字が示すように、融とは融(と)けること、通とは隔てなく通い合うことです。

すべてのものは、すがた【相(そう)】も、はたらき【用(ゆう)】も異なります。たとえばセメントと砂と水の三者はそれぞれすがたもはたらきも異なります。しかしこれを適度に混ぜ合わせることによってみごとにその個性を生かし合ってコンクリートという強固なものになります。また一室に灯された百個の電灯は、それぞれの光を放ちあい一定の照明となり、お互いに通じて碍(さわ)りのない世界を創りだしています。それぞれが自分の力とはたらきを出し合って、調和のとれた世界を現出しています。これが融通です。

みな融け合って大きな力とはなりますが、だからといって一つ一つの個性は決して失われるものではありません。やはり一つ一つの灯火は確実にその光を輝かせて個性の尊厳に光っています。これは全体【一切(いっさい)】の中の個(一)の大切さをいったものです。一と一切との関係は相依(あいよ)り相扶(あいたす)け合って存在するのです。

融通念佛とは念仏を修することによって、人と人、人と物、物と物とのすべての関係の上に融通和合(ゆうずうわごう)の世界を自覚し、苦悩と迷いのこの世界を喜びに満ち溢れ、悟りの智慧かがやく楽土(浄土)にすることを目指した教えです。

融通のこころ

お念仏の功徳(くどく)とは

融通念佛宗では、一人の念仏と一切人(他の人)の念仏と阿弥陀仏の本願力との三者が融通し、私とその他の人がともに救われていくことを他力往生といいます。

融通念佛宗のご本尊「十一尊天得阿弥陀如来」は宇宙に遍(あまね)く満ちている真理を具現化した法身仏(ほっしんぶつ)と見ますので、その本願力とはこの世界を存在ならしめている根本の力とでも言えるでしょう。生きとし生けるものすべてを生かしてくださる不可思議な力です。

また、徃生というのは浄土に往生することをいうのですが、そのお浄土は広大で霊妙な心の働きの中に摂(おさ)まり尽くすもので、ひとたび「融通念佛なむあみだぶつ」と称えれば三者の力が融通して、この娑婆世界(しゃばせかい)(迷いの世界)が喜びと幸せの光かがやく浄土となるのです。

この偉大な融通念佛のはたらきの中では、一人の念仏は小さくとも、同時に一切の人に功徳を分かち、一切の人の念仏が一人の上に注がれてくる。また念仏の一行がそのまま、他のすべての行いとなっていくのです。

念仏を一心に称えれば、この口に悪口、不平不満等の言葉もなく、自ずと心も鎮まり、姿勢を正して、合掌の姿も自然にでてきます。このことは期せずして、身、口、意の三業が清まることであり、諸善万行を修したことと同じです。

極楽の在り処

仏教には人それぞれの心の中に「仏種(ぶっしゅ)」を宿し、それらを開花させることで誰もが仏になる可能性を秘めていると伝えられています。

私たちの宗では唯心浄土(ゆいしんのじょうど)、己心弥陀(こしんのみだ)ということがいわれます。唯心浄土とは心の中に浄土が存在することを指し、己心弥陀とは己の身が阿弥陀仏であるという意味です。

私たちの心のはたらきには喜怒哀楽さまざまに変化する「方寸の心」だけではなく霊妙不可思議(れいみょうふかしぎ)なものがあります。その心はいわば仏さまの心そのもので西方十万億土(さいほうじゅうまんのくど)の極楽浄土も私たちの中に存在するといえます。そしてわが身は円満にして何ものにもとらわれない身体を表し、そこに実践行(お念仏を称えること)を尽くすことで、己の身が阿弥陀仏となり、わが足下(あしもと)も浄土であることに気づかせていただけるのであります。

私たちは幸せを遠くに求めがちでありますが、わが足下をしっかり見詰め、そこに見出していくより他にありません。お念仏を通して自分一人だけでなく、一切の人とともに仏の種を開花させたいものです。

「極楽は十万億土といふけれどふりかえり見よここも極楽」

「極楽は十万億土といふけれど
  ふりかえり見よ ここも極楽」