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融通念佛宗総本山 大念佛寺

法話

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御遠忌(ごおんき)を迎えて(三)

 それでは融通念佛宗が開宗以来900年を迎えるという節目を5年後に控えて、その軌跡を簡単にたどってみることにしましょう。

 宗祖良忍上人は延久4年(1072)1月1日、尾州知多郡富田荘(とんだのしょう)(現 東海市富木島町)に誕生されました。平成22年からさかのぼること938年前のことです。父上は富田荘の領主、藤原秦氏兵曹道武(ふじわらはたうじひょうそうみちたけ)公、母上は熱田神宮大宮司の息女でした。因みに良忍上人祖先の墓がこの地に建っています。

 上人は産声のときからその声が世の常ならず秀れていたことから、幼名を音徳丸と名づけられました。3、4歳の頃より、その遊びも普通の子どもと異なり、常に泥や砂を集めては仏像や堂塔に擬(なぞ)らえて、それを拝むという風であったと伝記は記しています。仏縁のしからしむるところ、12歳のとき、出家を志して父母のもとを辞し、比叡山に登り、檀那院(だんないん)良賀大僧都(そうず)のもとで剃髪得度(ていはつとくど)を受け、修行と勉学にいそしまれました。そして名を光乗坊良仁(りょうにん)と改められました。(良忍となったのは大原へ隠棲(いんせい)してからのことです。)

 21歳の若さで比叡山の講主(こうしゅ)の職に推され、一山の修行僧や貴族の子弟に勉学を講じられました。講主というのは、今ならさしずめ主任教授とでもいったところでしょうか。
 しかし、当時の比叡山は一部を除き、心ある修行者にとっては甚だ住みにくい所になっていました。そのわけは第1に、天台の教義ばかりを詮索して、観法(かんぼう)すなわち教えの実践がおろそかにされ、伝教大師が強調された道心(どうしん)がゆるいでいたこと。第2に比叡山の世俗化があります。貴族社会に変わって時代は武家政権に移行し、その権力を強固なものにするため、多くの僧兵をかかえた天台の勢力が軍事力として利用され、寺院もまた政治力と結んで自らの保全に努めるという有様でした。 第3に、奈良、平安初期の大勢を受けて、仏事が盛んになったのは結構なことでしたが、一部の特権階級の人たちの栄華と現世的祈とうによるものがほとんどで、巷(ちまた)に苦悶する庶民にとっては、真の救いとはならなかったのです。

融通念佛宗 宗務総長
総本山大念佛寺 寺務総長
吉村 ワ英

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