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融通念佛宗総本山 大念佛寺
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大念佛寺ガイド

融通念佛宗のあゆみ

国産第一号の宗派
 日本仏教の宗派は古来、十三宗五十六派と称していました。戦後、多くの宗教法人が分派独立したり、新たに開立したりして今ではその数も百六十程になっています。しかしその教義及び歴史と伝統の上に立ってみると十三宗がその根本であることに変わりありません。
融通念佛宗は古くから“大念仏宗”又は“融通大念仏宗”と呼ばれ親しまれてきました。日本仏教十三宗のうちで成立順にみると第六番目になります。天台宗、真言宗に次いで平安時代後期に成立した古い歴史を持つ宗派です。鎌倉時代になると、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など相次いで成立しましたが、融通念佛宗はその先駆けをなしたもので国産仏教第一の宗派といえるのです。なぜならそれまでの宗派は三国伝来といってインド、中国または朝鮮を経てわが国に伝えられた、いわば輸入仏教であったからです。それでは融通念佛宗についてその概要を説明しましょう。

大念佛寺の開創

 良忍上人はかねてより聖徳太子尊崇の念が深く、名帳勧進を兼ね太子ゆかりの四天王寺に詣でた折、平野が融通念仏を広めるのにふさわしい土地柄であるとの太子の夢告を得られました。
 平野の地は征夷大将軍 坂上田村麿の第二子広野公の管轄下におかれ、その菩提寺である修楽寺(明治初年、廃仏毀釈により杭全神社に吸収された)の別院だった香華院において融通念仏会を修したところ、参集の人びとがあとを絶たない盛況ぶりでした。鳥羽上皇はここを念仏勧進の根本道場と勅されました。これが総本山大念佛寺の開創です。

法燈の中断と法明上人の出現

 その後、良忍上人の後継者がこの念仏の勧進をますます盛んにしていきましたが、大念佛寺に伝わる宗門の法燈(血脈ともいう)は、第六世 良鎮上人が寿永元年(1182)に没して後、良き後継者に恵まれなかったため、元亨元年(1321)まで百三十九年間中断することになりました。その間、融通念仏の法儀、宗要の密意、霊宝の悉くは石清水八幡宮の男山の社殿に蔵されました。

 宗門の法燈が中断したとはいえ融通念仏の法流は別のルートを経て各地に伝播することになったのです。嵯峨清涼寺、花園法金剛院、壬生地蔵寺などで融通念仏が盛んに修せられとともに、聖と呼ばれる遊行性をもった僧が各地で念仏勧進に励みました。東大寺叡尊、円覚十万上人道御、一遍智真は融通念仏の普及に最も尽力した聖達でした。また民間信仰や芸能と結びつき、日本全国に広まっていったのです。
 宗門の法燈が消えていた鎌倉時代において法然上人、親鸞上人、日蓮上人等が出て、新仏教が開花しましたが、その中にあって融通念仏はその庶民性と寛容性とによって各地に力強く浸透していったのです。
 融通念仏がいわゆる傍系において盛行を見ていた折しも、高野聖として活躍していた深江の法明上人が宗門の法燈を継承することになります。

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法明上人による復興

 元亨元年(1321) 法明上人四十三歳の11月15日夜、深江の草庵に石清水八幡大士が来現して、 「永らく融通念仏の法燈を伝授する器を待っていたが、あなたこそその人材である」と告げ融通念仏の口伝を授与し、その上、良鎮上人以来男山の社殿に預かっていた霊宝のすべてを返還する旨を伝えます。
 八幡大士の神勅は同社の社人にも及び、融通念仏の霊宝の授受が茄子作(枚方市)の里で行われます。ここは八幡宮の社人と法明上人の一行とが霊宝の授受を行うために出向いて遇々出会った所であったのです。
その時の両者の感激ぶりは本尊「十一尊天得如来」を傍らの松の木に掛け、その周りを念仏を唱えながら踊りだしたという故事にもよく表れています。これが今も史蹟として残る茄子作の“本尊掛けの松”であります。
 法明上人は惣(郷村)を中心に活動し、念仏共同体として講を組織し、大念仏教団の基礎を築かれました。

大通上人の再興

 室町、戦国時代を経て徳川初期に第三十六世 道和上人の時、総本山大念佛寺の寺地が現在地に定まり一宗の本寺としての権威は高まったものの、元和元年(1615)大坂夏の陣によって堂舎ことごとく焼失しました。それから六十年後の寛文十二年(1672)第四十三世舜空上人の時、立派な本堂が再建されました。(明治三十一年に焼失し現在の本堂は昭和十三年竣工) かくして第四十六世 大通上人の出現を見ることになります。天和二年(1682)初めて江戸に登り、将軍綱吉公の裁可を請い僧侶の服正を正し、広く諸国を巡歴し、高徳を訪ね、有縁の信者を教化することに努められました。元禄元年(1688)宗門の復興の台命を受け、儀礼を整え、諸堂を新築、また境内を整備し什物を修理するなど大念佛寺の景観を一新されました。
 また檀林勅許を賜わり、宗内に仏教の学問を盛んにし、自ら「融通圓門章」「融通念佛信解章」を撰述し、教義を宣布し、さらには末寺を巡錫して本山と末寺との関係を密にされました。
 まことに大通上人は宗門の再興の大恩人というべく今日に至るまで、その偉業は輝かしい光彩を放っているのです。

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